必見!?写真を撮る習慣を生み出す秘訣
こんばんは。
USMのフリーに潜った以外何かをした訳ではないので、今日もゆるーく書いていきます。
この書き方だと、何かあった日はしっかり書いているみたいに受け取られかねないな。
※サンデーとまで行かずともコナンやジャンプがアニメ・漫画の一般教養扱いされているという自身の偏見を脱却したい
皆さん自分の画像フォルダを見てみて下さい。
どんな画像が最近多いですか?
やっぱり私のところを訪れるだけあって、Twitterの神絵師達のロリ絵やアプリゲームのガチャ結果、違法ダウンロードした◯学五年生がメインのHな同人誌辺りでしょうか。
※ガチャ画像を人に見せる文化はどこ由来なのだろうか
もしそうだったなら、自分の人生を見つめ直してあげて下さい。
仮に人生は一回と考えない宗教に属していたとしても、自分を大切に扱うことが云々KAT-TUN。
※KAT-TUN 特に意味はない。俺の方が格好良いと思ったなら貴方は図太いと予想しておく
それとも、画像なんか撮らねーよボケナス(死語)というタイプの人間ですか?
もしそうであるなら、部分的に私と気がアイマスね(天丼は相手の反応ありきでないと使いにくいな)。
※アイマス お小遣いで初めて買ったCDがあった気がするもののPになった記憶はただの一度もない
※これはアイマスでもアニマスだと云うお叱り等はご容赦頂きたく…
そろそろ私の記事に対して興味ないけれど開いてくれた人(非常に感謝していますよ)がブラウザバックした頃合いだと思うので本題に入っていこう。
個人の主観ではあるだろうが、今まで大量の画像を載せていたのは世界が滅亡することを暗示していた──もうそういうの良いから──のでは当然なく、自分があまり写真諸々を撮らないことを噛み締めていたのである。
勿論、比較対象があって初めて大小、優劣、雌雄等は決まる。
今回はまあ、ご飯を食べるときに写真を撮る人ぐらいだろう。
正直に云うと、ざっくりしているのは明確な対象がいないからだ。
仮にいたとしても、今回のような場合はただの個人の愚痴(いなくてもそうなのだが)でしかないし、大抵の劣等感は想像によって生み出される部分が多いはずだ。
要するに藁人形論法である(論法と云えるものですらない)。
ここまで自覚しているので、あとは自分の認識をどうしたいかである。
ありがちなのは、画像を撮ろうとする衝動──大体はプラスの感情が多いだろうか──があるからだ。
書く前は正直これで納得しかけていたのだが、なんか腹が立ってきた。
自分が感情的でないみたいで。
?
感情的でない──冷静で理性的な──ことは別段悪いことではない。
では、何が問題なのだろう。
…単純に何かを──出来れば誰かと?──楽しみたいだけなのではないだろうか(なんだそれ)。
でも実際それは少しだけ違うとも確信しているのであった。
何故なら、やっぱり食事を写真に撮る感覚が納得できなさそうだからだ(だからとて、それを指摘したり、怒ることはない)。
ただ、個別具体的にそれ以外の事例を考えるほど経験値と頭の冴えが圧倒的に足りないのであった。
※何か思うことがあれば、「いいね」や感想を貰えると私の気持ちを揺さぶれます。気楽にどうぞ!