CLANNADという世界を形作るものは

アルクまして、おめでェイド!
月姫リメイクのリリース決定おめでとうございます。新年です。の意)
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※万病に効くものの副作用が酷いと云われて早10数年。副作用をも克服しかけている。

年末年始はいかがお過ごしでしょうか?(CLANNADの話だけ見たい方は適宜飛ばして結構ですよ

一年の計はガンプラにありという諺もあるとおり、皆様もプラモデル作りに勤しんでいますでしょうか。私は積みプラが増えました(嬉しい悲鳴)(FAガールはハマると増えるという都市伝説は真実だったようだ)。

丁度ニコニコ生放送の長時間アニメ鑑賞会が連日連夜あったので、良いプラモデル作り期間だったのだろう(成果は問わないものとする)。


んなこんなでCLANNAD」全4クール(所謂1期・2期)をニコ生のタイムシフトで見ました(あと「わしらの(ぼくらの)」も)。

見ようとしたきっかけとかはまあどうでも良いと思うのですが、これが最有力候補です。暇つぶしに見て♡(we will 号泣 - ニコニコ動画


ずは素朴な感想たちを──といっても他には考察もどきの妄想だけなので、どこまで行っても感想だ。

一番強く思ったのは、家族…人にもっと優しく行動できるようになろうということ。この年齢になって初めて出会えて良かったのだと思う。もう少しでも若かったら理解度が低かっただろうし、歳をとっていたら手遅れになっていたかもしれない。

他には、他で堂々とこんなことを書いたなら煙たがられたり、馬鹿にされそうだが(いやそんなことすらも起きないか)、自分の世界が非常に恵まれていることを嫌でも納得させられて泣いた、泣きまくった(inトイレ)。18話前後は画面(という名の視界)が歪みまくるので、一旦止めて落ち着いてから再開するも、直ぐにまた泣く全自動嗚咽機と化していた。

※一般に「泣きゲー」と云われる本作だが、泣きも燃えの原理と似通っていて、別種だが、同じ方向の感情を揺すってやるとより共鳴しやすくなるのだと思う。つまりは、本編での悲しい出来事や、それを乗り越えるエピソードとプレイヤー/視聴者の実体験がリンクしてくれればベストではないだろうか。


なんとなくの前情報や、ニコ生のコメントで作品テーマ──というよりタイトルの意味──が「家族」というのは知っていたのだけれど、家族(ないし共同体)を成立するために一度壊れる/壊れかける必要がある倫理観は泣きゲーらしいのではないだろうか。

※どちらかというと、テーマとして掲げられているのは「命のバトンを渡していく」ことだと感じた(「大人になること」をもうちょっと越えて伝えてくれたと考えているのだが、皆さんはどう捉えているのだろう)。

どこかの場面(最終局面手前あたりだったと思う)で主人公=ゲームをプレイする俺らを重ねさせているのだろう描写を感じ取ったのだけれど、この感覚は美少女ゲームを最低一度でも経験していないと得られる気がしない(無様な優越感ポイント)。ひょっとすると、メタ的にゲームをプレイしたり、作品を見たりしていないとゲーム本編に挑んでも得られない感覚かもしれない。

※追加しておくと、願いを叶えるために玉集め(ドラゴンボールとも)をするという大変な労力が、作品の最後に報われる──「失われた未来を求めて」のシナリオ構造が近いか──というのは、同時並行的に進むアニメだと感じにくい部分かもしれない。


ことみの話が好き──というかこの話だけで作品の伝えるべきところは押さえていないか?──なのだが、幼馴染は敗北する…のではなく親の温かみに支えられて道を切り開いていくのが主人公ーヒロイン成長物と考えた場合、メインヒロイン・メインテーマとは成りづらいエピソードだろう(グリザイアの幸を思い出しながら)(パッと見で好きなタイプは)(お前のタイプは聞いてねぇタコ!)(元ネタのたんぽぽ娘も宜しく)。

渚の死は直ぐに実感出来なかった──作品に入り込めないのではなく、現実感(アニメじゃない〜本当のことさ〜)がなかったというのが妥当だろう。物語の鉄板ではあるだろうが、事前知識で親子三人で歩いているような絵に見覚えがあったからだ。あと単純に私が人の死(動物関連もか)に鈍いことがあるせいもか。

4クールもの長さは愛しい。世界観を読者/視聴者に共有してもらえないと、その物語で発生する種々の事件にのめり込んで貰えないことがある。だから昨今のクソ長タイトルが生まれるのだろう(諸説アリ)けれども、それと似ていて、膨大な量のテキスト/映像=時間が没入感を与えてくれるのだ。無論その生み出される雰囲気を維持・形成していくための努力があってこそだが、上手くいったときの破壊力は知っての通りだ。


に、ニコ生視聴で感心させられた・気になったこと。

「かなりの読解力を要求してくる内容で、理解度によって作品の感想が違ってくる」という言葉はけだし名言だと思う。

CLANNADは人生から始まる伝統的な文言がある。コメントでは一つの作品だけで「人生」なんて(人間的に)小さすぎると見かけた。額面通りなら、そうであると言い切れるのだけれど、ゲームやアニメを通して改めて自身を見つめ直すということが出来て初めて、それが「人生」とまで昇華出来るのではないだろうか。つまり娯楽としてでなく教科書、手本としての見方だ。といっても、美少女ゲーム──この名称はエロゲだけなのだろうか。今回はCLANNADを含む全年齢のギャルゲも含んでいると一応明記しておく──のご都合宜しく「これからは幸せな生活を送るんだ」という終わり(ハッピーエンドとして見れば当たり前なのだろうが)な為、登場人物(=主人公)の人生の最後(=死)まで描写がないではないかと突っ込めなくはないかもしれない。
蛇足だろうが。

露骨に一期は新作だーまえの評価云々が多かったか(神様の生まれる日)。単純比較するべきでないがafterの方が来場者数もコメントも多い。学園物の美少女ゲームで主人公とヒロインが結婚後の生活や妊娠をどう乗り越えるのかということに焦点を置く作品はやっぱり物珍しいことも影響するのだろうか。ニコ生の視聴者年齢層が老人しかいないとかだったら悲C。

妊娠→渚死亡→育児放棄の流れでコメが「自宅出産はやめとけ」、「親父の方がまとも/朋也が親としてどうなの」みたいなところで上手く現実に戻してくれて良かった(小並感)。

良く言われそうな「朋也よ、大学くらいは出ておけ」は全くもって否定する気がないのだけれど、「自宅出産やめろ」「そもそも身体弱いのにオセッセも出産も慎重になるべき」「育児放棄」「病気の子の為に辞職は余計にキツくなるだけ」は正論でもあると同時に、現実そういう事例があることを知っているため、シナリオ書いた人も知っててワザとやっているのだろうなぁと凄く感心しつつ、全部悪い方向に進むことが分かり切っているので、効くものがあった。

親父の話で親父に憧れるのはちょっと分からない部分もある。勿論私が親の立場でないからということがあったりなかったりするかもだが、だーまえが執筆した年齢を考えれば誤解を解いて役目から解き放つことがベストなのだろう(例えば一緒に暮らして失った時間を取り戻す等の構想も一見なしではないはず)(何様発言なのだろう)。

最後(正確には最終回──ニコ生は+αがあったので一応。そちらは視聴できなかったが)の幻想世界に関しては「考察を見ろ」や(恐らく初見の方による)色々な解釈──ここが謎といったコメントは正直鬱陶しさもあったのだが──が流れていたので満場一致な最終結論が出ているわけではないのが不思議に思えた(名作ほど複数解釈可能という話も多々あるが)。これは親父との関係修復あたりでエンディング──渚は死んでしまったが、汐(娘)をきちんと育てていくよと自分の中でケジメをつけるエンドだろうか──を迎え本編が終了して良いという意見も確かに存在していることも踏まえて良いかもしれない。要するに物語の最後、作品の最終結論といっても良い部分をある種蔑ろにしても感動出来るし、何度も見たくなる作品となって「しまって」いる。

※この「内容を正確に把握出来ずとも、心を震わせられる」作品が存在するというのは非常に興味深い──といっても「理屈だけで泣いたり笑ったりするのが人間」というのが正しくないことは誰でも直感的に納得してもらえるだろう──がここで話したい内容ではない。要するに幻想世界の崩壊という難問に取り組む必要がある。これは非常に大変だ。なにしろ内容が分割されているし、抽象的なことが多い。そして、ちょっと検索しただけではどうやら参考にならない考察が多い。これは考察勢を馬鹿にしている訳ではなく、私自身が作品に対して納得出来る感想を求めているからだ(都合の良い感想が欲しいというのとは部分的に肯定だが違っている)。作中の言葉で説明することは少し頭が良いだけで出来るのだ。イベントごとの重要ワードをピックアップなり覚えていたりすれば良く、そこからその観察データを齟齬が発生しないように上手く並べれば良い。そしてその並びに対して作中の言及を根拠にしていればなお良い(これすら出来ないやつが偉そうに)。私はその先が欲しい。作者がどう思って/何を考えて書いたのか、偶然大ヒットすることが厳しいのは誰でも納得出来ると思う(ごく稀にその偶然もあるがまあ良い)(逆にそれだけ練られていたとしてもヒットしないこともある)


して最後に、結局どんな作品だったのだろうかと巡らしてみた。

セカイ系──正確に捉えているかは微妙なのだが、いわゆる「キミ(ヒロイン)とボク(主人公)」だけの世界でヒロインの問題が世界(彼らを形作る「狭い」セカイ)の危機に関わっている。ヒロインの死がセカイの死に直結している作品──からの脱却を図りたいのかなと感じ取った。正直に云って、根拠のない文章は「考察」の二字から謗られて当然と自覚して続けるが、大抵の美少女ゲームの場合、ヒロインに問題が起こった時は主人公がなんやかんや頑張ってヒロインを救ってハッピーエンド(Hがあったりなかったり)となるのだが、渚編(CLANNAD全般で云えるだろうか?)だと、主人公の動きによって、問題が解決出来る状況はそれほど多くない。それは朋也が学校では不良と扱われている立場の問題以外にも与えられるだけの立場である「子供」だからで、学園祭の前日に両親に負い目を感じているのがはっきりと現実化した件において、渚の両親が解決の一端になったことからも明らかだろう(読解力不足だとしたら申し訳ない。そして我が身にも思い当たる部分があり身につまされる)。

※卒業以降、渚と朋也の立場関係が逆転するのが面白い。問題を解決したヒロインの方が主人公よりも強いというのは納得せざるを得ない(グリザイアの果実>迷宮、楽園派の指摘も多少解消してくれる気がする)。
 

他にも謎の少女(汐のことだが一応)とそのセカイ(止まったセカイ/幻想世界)が消えることで、物語の世界(動きのある世界/作中の現実世界)が主人公の救済に向かうという一見セカイ系の香りを残しつつあるが、その実、救済は自分(=主人公である朋也)の行いの総決算でしかない。それは奇跡的な行為ではなく、与えることができる「大人」として誰でもが行なってきている当然の態度の延長によるものと敢えて安易に大きくしない態度からも見えるだろうか。

※とはいえ町=幻想世界がやっぱり上手く繋げられている自信がない。実際問題、テーマが「家族」だのなんだの言われつつそこに至ろうとする過程で町という一見無機的な観念が飛び出てくる──本編でもその感覚を取り払うためか町=渚・汐=幻想世界として扱うことで擬人化(?)して扱っている──のは違和感だし、それが物語の中枢に関わるのだから簡単に扱って終わりにするべきではない感覚だけはある。純然たる都会っ子で自分の家から出ていないという典型的こど☆おじなせいが大きいのかもしれないが、田舎から東京に出ていく経験があれば少しは違うのかもしれない。見当違いの妄想を広げるのなら、2000年前後の秋葉原の再開発によって今までの街の風景が変わってしまうことを予見して(実際問題、手続き等は始まっていたようだ)、街は変わっていくが、それでもそれを愛していけるのだろうかというメッセージが含まれていたのではと感じ取って無理やり納得しているのだが、その時代の空気感を知らないので、再開発に対する危機意識があったのかだったり、そもそも大阪に本社があるkey、ヴィジュアルアーツがそんなことを考えるのかだったりという素朴な疑問点・違和感が拭えない(最終決定でなくとも色々な意見を聞いてみたい)。


私自身拾えてないところは、作品の考察ブログを少し閲覧させて貰うだけで多々出てくるから、本当の所はもっと真剣に取り組めば取り組むほど楽しさが出てくるのは分かるのだが、それと同時にその考察(もどき)を話し合って紡がないと凄く意味のない作品にも思えるのは少し寂しい──生まれる時代を間違えたか──ので、最後まで読んで下さった方は「いいね」や感想を戴けると☆光の玉☆が生まれます。



※引用している他の美少女ゲームは全て「CLANNAD」よりも後年の作品です。やっぱCLANNADってスゲーじゃん。