たぶん友達が欲しいというのとは違って…

病めるときも健やかなるときも人は話をして解消してきた。
厳密に云えば、話でなくとも良い。
イラストを書いたり、同人誌を出したり、ボカロ曲を作ったり…要は自己表現をして、多少でも返答を貰ったりなかったりして、解決までいかなくともマイナスをプラスで埋め合わせていく。

結論から書こう。
Aしか出来ないという関係性は嫌だ。
結局Aという関係性を──あくまでも自分から──選び取っていると思えることが必要であり大事なのだろう。
要するに、実情はどうあれ、制限を与えられると感じるより、束縛されていたとしても自由ならきっとマシなのだ。
こんなことを聞かされても3人中15人くらいが我儘な奴と思うだろう。
もしかすると、1.2匹くらいが賛同してくれるかもしれないが。
とはいえ、それ自体はそこまでキツいことではない。

ただ、構造的にそういう関係しか望めない(気がする)場合はどうだろう?
例えば、少し自分とは合わない上司、厳しい先生、誰彼構わず食っちまう──阿部さん──ではなく誰彼構わず構ってくる先輩(男女は問わない)。
今どき(?)だったら、心殺モード(無心とも)に入るか、Aハラスメントと強く抗議したり、そこまででなくとも、Twitterに愚痴を書いてみたりするかもしれない(この記事もそれに値する…かな)。

今の環境で悩むことは、とにかく(気持ちとして)他人に任せたいけれど、それで失敗したから恐れている…きっと動こうとすることが怖いのだ。
問題を立てて、解決の指針の目処が立って、でも動かない、動きたくないのはGO MANで、必要なことは考えた道を信じて進んでみるしかないのだろうか

安易に動け動け〜という思考に持っていく、誘導するのは簡単だけれど、それは他を検討せず「思考」していないのではなかろうか
正直に云えば、まだ答えは出ていない。
記事にするなら自分なりに考えを打ち出してからにしたいのだが…。
でも、やはり表現することで「満足」出来た部分もあるから一旦、屋根裏部屋の隅に置いといて、ふとした時に/絶えず考えよう。

未来の君が多少なりとも答えを出していると信じて。